ある夜、エーゲ海に面した都市国家ミレトスで、星空を見上げながら歩いていたタレスは、道端の溝に気が付かず転倒してしまいます。星々をつぶさに眺め、その真理を探ることに没頭していたからです。ここで重要なのは彼が移動していたことです。天体は一般的に堅牢な天文台で定点観測するので、彼の行動は奇異に感じられます。そこで彼の眼に脳裏に映った星々を想像してみましょう。それが「タレスの刻印」の本質です。
移動しながら観察することは相対運動として複雑な事象を引き起こします。天動説か地動説かはさておき、地球に対する星々の動きに観察者が動けば、さらに混沌とした多体運動となります。それは予測不可能な複雑性を持ち、流麗で魅惑的な表象が現れます。水面にインクを垂らして模様を写し取る墨流しのように、夜空の星々のダンスを感光させる。それが「タレスの刻印」の図像です。
なお、タレスは古代ギリシャの哲学者で、数学や天文学にも通じていました。世界の始源を神話や寓話ではなく合理的に説明したことで、哲学者の祖とも言われ、タレスの定理、ピラミッドの高さの推定、日食の予言、オリーブの収穫予測といった業績でも知られています。無類のスポーツ好きでもあったそうで、まさしく動く観察者、走る哲学者と言えるようです。